子どもの頃のシモに関する悲しい話は枚挙にいとまがない。

中でも小3の「ノーパン事件」は40年以上経った今でも鮮明に覚えている。

当時、共働きだった両親は私が起きるよりも早く家を出ていた。

その日もいつものように一人で起き、着替えようとして気がついた。

着替えのパンツがない。在庫ゼロ。

全て洗濯されて干してあり、まだ乾いていない。

超キレイ好きの私は昨日1日はいたパンツをもう1日はき続ける気になれず、

「まぁ今日くらいパンツなしでも問題ないや。」

と、その日はノーパンで過ごすことにした。

しかしこの時、私はある重大なことを忘れていたのだった。

家を出て、学校に着く頃には自分がノーパンであることをすっかり忘れていた。

朝の会で先生が今日の予定をみんなに伝えるまでは…

「みんな分かっていると思うけど、今日は給食のあと身体測定があります。」

終わった…。

当時の身体測定はパンツ一丁で行われていたのだ。

( 僕ひとり、丸出しで廊下に並ばなければならない。)

パニック状態の小3にいったいどんな解決策が浮かぶというのだ。

今になって思えば、保健室には替えのパンツくらい置いてあったはず。

優しい保健室の先生にこっそり頼めば、きっとなんとかしてくれたはず。

1時間目、2時間目、3時間目…。

授業など全く聞いておらず、

私の頭の中には前を押さえて廊下に並ぶスッポンポンの自分がリアルに浮かんでいた。

( 何とかしなければ。)

ない知恵を絞りに絞って、私はあることを思いついた。

4時間目が始まる前に担任のところに行き、

「忘れていたのですが、今日は4時間目が終わったら早退するように親に言われていました。」

そう告げた。

その人は、大好きだった本来の担任が入院したため代理で担任になった人だった。

それはそれは意地が悪く、その上すぐ叩いたり罵ったりするような人だった。

ゆえに始めっから本当の理由を言うつもりはなかった。

「ほう。で、何時何分までに戻らなければならないんだ?」

詳細は忘れたが、私の発言は明らかに矛盾だらけだったと思う。

それでもどういうわけか、すんなり認めてくれた。

この時点で、子どもの苦悶の表情を見て何かあると察することができない人は

子どもに関わる仕事をしてはいけないと思うのだ。

とにもかくにも、その日は事なきを得た。

次の日の朝の会。

その担任はいきなり私を前に呼び出し、尋問し始めた。

そして黒板に数直線を描き、時間の目盛をふり、私の矛盾点を指摘した。

「お前は◯時◯分に戻らなければならなと言ったが、◯時◯分に学校を出て、家まで◯分かかって….」

「これなら身体測定が終わってからでも十分間に合うじゃないか。」

「結局お前はサボりたかったんだな。あやまれ。」

本当の理由など知る由もない担任は「親が戻って来いと言っていた」という嘘は信じたものの、

時間の矛盾を指摘して、私を吊し上げた。

悔しさと情けなさとで私は唇を噛み締めて泣き続けた。

子どもは嘘をつく。

もちろん大人だって嘘をつく。

嘘はよくない。

でも、嘘をつかなければならないほど追い詰められているときもあるのだ。

子どもに寄り添うというのは、

嘘の後ろに見え隠れするその子の何かを感じ取ることではないだろうか。

嘘を暴き立てて、叱るだけでは子どもはまた嘘をつく。

子どもに関わる仕事をする人間には、

嘘をつくことのデメリットを伝えつつも、

その子を知ろうとする暖かい目が必要ではないだろうか。

パンツの嘘で随分と大上段に振りかぶってしまったな…。