小学生
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家庭教師が日本語教師をひと月やってみて
日本語教師として外国人留学生に日本語を教え始めて、ひと月が経ちました。 新任の過酷さを噂には聞いていましたが、それは噂以上でした。 3時間以下の睡眠時間を続けた結果、とうとう帯状疱疹を発症してしまいました。 いくら周囲から「若く見えますね。」と言われたところで、来月で55歳….。 そろそろ無理が効かないお年頃です。 私が勤務している2つの日本語学校では、日本語を日本語で教える「直接法」で授業が行われます。 第二言語を学ぶ学習者にとって「直接法」は非常に有効な教授法です。 有効な教授法ですが、学ぶ方も教える方も、これはなかなか大変です。 担当クラスのほとんどの学生に英語が通じることもあり、苦しくなるとつい英語で説明してしまいます。 ある程度は大目に見てもらえますが、行き過ぎると上司に注意を受けます。 (現在、新人研修中のため上司が見学に入っています。) この辺の大変さを書き始めると止まらなくなるので、また別の機会にします。 さて、このひと月で気がついたことがいくつかあります。 まず、想像を超えていたのは過酷さだけではなく、日本語を教えることの楽しさです。 睡眠時間を削りながら作る教案は、確かに大変ではあります。 大変ではありますが、これまで意識せずに使ってきた日本語をじっくり見つめる時間でもあります。 それは驚きと発見に満ちた時間です。 そして授業。 上手くいかず立ち往生することもしばしばですが、それ以上にワクワクする時間なのです。 大げさですが、世界中から集まった学生たちが一つの教室で日本語を学んでいる。 授業中に彼らとやりとりしながら、各国の文化に触れることができます。 これまた驚きと発見に満ちた時間です。 国家間の関係はどうであれ、一人一人は本当に素敵な学生たちです。 私の説明が至らなくて彼らをしかめっ面にさせてしまうこともありますが、いつも笑顔に満ちています。 メディアの報道から受ける印象で、いつの間にか私の中に「この国はこういう国」という固定概念ができていましたが、国と個人は別であることを彼らに気付かせてもらいました。 先のことはわかりませんが、いまは日本語教師という仕事を心の底から楽しんでいます。 一方で家庭教師という仕事についても改めて考える機会となりました。 2004年にポプラ工房を立ち上げてから多くの方々に支えられ、今日まで続けることができました。 私は本当に恵まれています。本当にありがとうございます。 今回、日本語教師といういつもと違う景色を見たことによって「ああ、私は家庭教師という仕事が好きなんだな」と気付きました。 そして「これほど近い距離で若者たちと関わり、成長を見守ることができる仕事はないんじゃないだろうか。」と思うのです。 私を必要としてくれる子どもたちがいる限り続けたい。 改めてそう思います。 最後に。 日々、日本語学校の教案作りと家庭教師の準備に追われ自分のことでいっぱいの私を 文句も言わず支えてくれる家族に感謝しなければなりません。 特に、私は妻に対する感謝が足りません。口をひらけば文句ばかり。 今日から改めます。 新しいことに挑戦するというのは自分自身のエネルギーと、何より周囲の助けが必要ですね。 おっさんになっても挑戦している姿が、我が子や生徒たちへの刺激になることも期待して…。
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憧れた人が憧れたままの人だった
先週の日曜日、私と息子が所属する「ゲトカポエイラ」の日本支部代表のワークショップがあった。 代表のマッチ先生は本場ブラジルで修行を積んだ達人。 私と息子はYouTubeで拝見するマッチ先生を見て「かっこいいなぁー」と密かに憧れていた。 先生が札幌に来られるということを聞いて私たちは大いに興奮した。 ワークショップの前日、息子は「緊張するー」を連発していた。 まるで大好きなアイドルにでも会うかのように。 当日は車を停めるのに手間取り、時間ギリギリの到着だった。 会場のドアを開けると、そこにマッチ先生が自然な立ち姿でおられた。 「俺はすごい先生だぞー」オーラは全く出ておらず、物腰は柔らか。 優しそうな目が印象的だ。 思っていた通りの「マッチ先生」がそこにいた。 横にいる息子が緊張しつつも喜んでいるのが伝わってくる。 練習が始まってからも「物腰柔らか」は変わらなかった。 でも、動きはすごい。 カポエイラ独特の柔らかい動きの中にも、筋が一本ビシッと通っている。 指導も的確でわかりやすい。 「ああ、本当にお会いできてよかった。」 まだ始まったばかりなのに私はすでに満ち足りていた。 練習中、マッチ先生の指示に対してすぐに動けず、まごつく男の子がいた。 その度に札幌支部の先生がその子の手を取って導くのだが、 マッチ先生は「大丈夫、彼はできるから」「自分で考えて行動させよう」と言って制していた。 ああ、マッチ先生はカポエリストとしてすごいだけではない。教育者としても最高なのだ! だからみんなが彼を慕い、ついて行くんだ。 存在を丸ごと受け入れ、可能性を信じてくれる人。 誰だってついて行く。 私だってついて行く。 私は「家庭教師は伴走者」だと思っている。 子どもたちの手をグイグイ引っ張るのではなく、横に立ち同じ方向を見ながら励まし伴走する。 でも、なかなか思ったようにはいかない。 気がつくと手をひっぱていることもしばしば。 マッチ先生の子どもたちへの接し方を見て、私は大いに反省した。 憧れの人が憧れたまんまの人であることは稀だ。 最高のワークショップ、最高の休日だった。
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“時短”と”寛容”の等価交換
病院で風邪薬などが処方されると、胃薬も一緒に処方されることがある。 風邪を治すための薬が健康な胃を壊し、それを治すための胃薬が必要というわけだ。 スポーツジムを横切ると、ずらりと並んだランニングマシン使って汗をかいている人々を見かける。 見かけるたびに私は風邪薬と共に処方される胃薬を思い出してしまう。 技術の進歩は人をありとあらゆる苦役から解放してくれた。 私もその恩恵に大いにあずかっている。 でも、便利さは人間のなんらかの”持ち物”とトレードオフだ。 少し前の漫画「鋼の錬金術師」の言葉を借りれば、等価交換だ。(等価かどうか怪しいけど) 技術の恩恵にあずかるために、人は何かを差し出さねばならない。 たとえば車はもはや人間生活になくてはならない存在だが、人は長く歩く能力を差し出さねばならない。 まあ、それくらいならランニングマシーンでなんとか補填できそうだ。 でも、インターネット、パソコン、スマホに対して、人はどれだけの”持ち物”を差し出してきたのだろうか。 そしてそれは等価交換になっているのだろうか。 先日、生徒の1人に「私が最初に買ったパソコンは電源スイッチを押してから、コーヒーを淹れて戻ってきてもまだ立ち上がっていなかったよ。」と話したらほんとうに驚いていた。 もちろん少し盛ってはいるが、トイレくらいは行けたはずだ。 今は何らかのトラブルが発生していない限り、数秒で立ち上がるだろう。 先日、外出先で道がわからなくなりGoogleマップで経路を調べてみた。 すると機種が古いせいか地図がなかなか表示されない。 表示された頃には自力で目的地に到着していた。 歩いている間中、私はスマホに向かって「何やってんだよ!」と心の中で文句を言っていた。 でも、私のパソコン第1号に比べればなんてことはない。 どうやら私は、技術革新による”時短”と”寛容”を等価交換したようだ。 でも周りを見渡すと、”時短”と”寛容”を等価交換したのは私一人ではないことに気づく。 特に車を運転しているとそれがよくわかる。 ゆっくりと横断歩道を渡っている人にグイグイ接近して圧をかける人。 それはもう信号無視でしょ、と言いたくなるようなタイミングで信号の変わり目に交差点を通過する人。 信号待ちをしている間中、少しずつ少しずつ前進し続ける人。 全て挙げていてはキリがない。 もちろん昔もいたが、体感としてどんどん増えている気がする。 また、すぐキレる人も増えているように思う。 コンビニでもたつく新人スタッフを怒鳴っている人、怒鳴らないまでも舌打ちをする人をときどき見る。 せっかくスタバで美味しいコーヒーを飲みながらくつろいでいるのに、何やらバリスタにキレている人を見たこともある。 今よりもう少し若かった頃、書店で若い店員にキレているおじさんにキレたことがあった。 キレて説教しているおじさんに、別のキレたおじさんが説教している構図は何とも見るに耐えないものだったろう。 結果、同じ穴のムジナ。 “寛容”は便利さと決して等価ではない。 寛容が完全に失われてしまった社会を想像するとゾッとする。 心がキュッと狭くなっていることを感じたら、心の中で言ってみよう。 「それも、いいじゃないか」は面白い人生のスローガン メーソン・クーリー
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ハグしましょう
動物との触れ合いが人間に多くの癒しを与えてくれることは間違いないだろう。 そこには科学的なエビデンスもある。 幸せホルモン「セロトニン」、愛情ホルモン「オキシトシン」、恋愛ホルモン「フェニルエチルアミン」などの脳内ホルモンが分泌されるらしい。 これだけのホルモン攻撃を受けて幸福感を感じられないはずがない。 ついでに焼肉でホルモンを食べたら、もはや幸せの大安売りだ! つまらない冗談はさておき。 ペットに限らず、人は「命」と触れ合うことできっと幸せを感じるのだろう。(きっと文献もあるはず) パートナーをハグしたり、子どもの頭を撫でたり、手を握り合ったり、背中を摩ってもらったり。 子どもの頭を撫でることはするだろうが、基本的に日本にはない文化だろう。 私は海外の映画やドラマを観るのが好きなのだが、ハグやキスのシーンのない映画やドラマを見たことがない。 家で、街角で、オフィスで、みんなハグしたりキスしたりしている。 もう、みんな、セロトニンやらオキシトシンやらフェニルエチルアミンやらがドバドバ出ているに違いない。 羨ましい。 でも、路上で日本人カップルがひっついているのを時々見かけるが、なぜだろう、不潔感というかいやらしさというか粘着性を感じてしまう。 ハグに清潔感が必要かどうかはさておき、見ていてあまり気分がよろしくない。 私だけだろうか。おっさんだからか。 おそらくやっている方も見ている方も身体文化として身についていないせいだろう。 だから不自然なのだ。 欧米人がおじぎをしている姿にぎこちなさ、不自然さを感じるのと同じだ。 人は命の暖かさに包まれて生まれてくる。 だから命の暖かさが心地よくて、命の暖かさを求めるのだろう。 それを得られないのはきっととても辛いことなのだ。 今朝、「いってきます」と元気に家を出ようとするチビをいつものようにハグした。 当たり前のようにやっていることだが、 有難いことなんだ。 この記事を書きながら、そう思った。
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一気呵成の単元制覇
むかし予備校で極端な物理の授業をしたことがある。 「山岸の物理10時間特講」 物理は時間のかかる大きな二つの山「力学」と「電磁気学」があり、分量的にはその半分かそれ以下の「波動」「熱学」「原子物理」がある。 予備校は1年弱でこれらのことを教えなければならない。ましてや学生にとってのメイン教科は英語と数学であり、物理などはサブ教科だ。そう多くの時間は割けない。授業のコマ数も少ない。 毎年のことだが「力学」と「電磁気学」で許されたほとんどのコマを使ってしまう。 そこで私は「波動」「熱学」「原子物理」の3単元を、休日1日で講義してしまおうと考えた。ハードではあるが一気に全体を見通すことでモヤモヤ感、「間に合うかな?」のような不安がある程度取り除かれ、「ひと単元終えたぞ」という自信(この感覚はかなり大切だと思っている)と達成感を得らる。そして何より細切れに学習するより頭の整理ができるのではないかと期待した。 しかしながら準備がえげつなかった。全体の構成と流れ、スパッと学生の頭に知識が入るような説明方法や言い回し、長時間飽きさせないような工夫、板書計画、などなど。通常の授業でも同じことをやるのだが、10時間でひと単元を一気にやってしまおうというのだからいつものようにはいかない。各単元にルーズリーフをひとパックずつ使った。 希望者がいるかどうか不安だったが、意外なことに募集してみると満員御礼。 耐久レース的な授業にみんな後半はヘロヘロのようだったが、満足げな表情だった。 そして「参加してよかった」「わかるようになった」と学生たちも喜んでくれていた。 ちなみに、いい人アピールをするようだが、3回実施した「10時間特講」はボランティアである。 ギャラは生徒たちとの連帯感と、彼らの志望校合格で十分だった。(独り身だったから言えるのだが…) 基本的にはコツコツ積み上げる学習を推奨している。 コツコツこそ学習の王道だ。 しかし、時には一気呵成にやっつけるのも悪くない。 たとえば土曜日や日曜日、丸ごと1日使って「今日は二次関数を通しでやってみるぞ」とか「数IIIの定積分、全パターンを網羅するぞ」とかどうだろうか。休日まるまる使えば休憩込みで17時間くらいの学習時間は取れる。 勉強初心者にはいつも薄い問題集を勧めるのだが、それは「やり上げた」感が大切だから。 「一気呵成の単元制覇」も同じだ。「よし、やってやったぞ」感は大切。 しかしながら、一気呵成のあとは問題演習などで継続的にフォローアップすることをお忘れなく。 短期で頭に入れたことは短期で頭から出ていってしまうから。 札幌の家庭教師ポプラ工房では新規生を募集致しております。お気軽にお問い合わせください。
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奥深き食文化
7月から日本語教師としてデビューする。 その準備で今日は授業見学&ちょっとだけティーチングアシスタントのようなこともさせてもらった。 授業の冒頭で30秒の自己紹介タイムをいただいた。 私は山岸浩也です。9月8日生まれです。趣味は武道、武術です。空手、合気道、中国拳法、そしてカポエイラができます。 ペットはフクロモモンガを飼っています…。 映画や読書も大好きなのだが、自分の持ちネタでインパクトがありそうなものを伝えた。 「へぇ〜」とか「おお〜」のような反応はなかったが、興味を持ってくてたような感触はあった。 「私のところではフクロモモンガを食べます。」 台湾から来た留学生が休み時間に私に話しかけてくれた。 「食べます。フクロモモンガ。」 その言葉を聞いても意外なほど私は動揺しなかった。でも驚きではあった。 「そうなんだ!美味しいの?」 「はい、美味しいです。」 そう言って彼は写メを見せてくれた。 それは結構インパクトのある図だった。 一瞬「豚の丸焼き?」と思うような色と形。 おそらく毛と内臓を取り除いて、開いて、天日干しをしているものだと思う。 たくさんの「フクロモモンガの開き」を並べて干してある写真だった。 それは私と彼とのコミュニケーションの一環であり、彼には悪意のかけらもない。 だから私の心にも不快感は一切なかった。 ただ興味が湧いた。 もっと色々知りたかったが、時間がないこと、彼がまだ初級だったことから、話は終わりになった。 あれは小学校5、6年だったろうか。 テレビで海外の街頭インタビューが流れていた。 日本の捕鯨に対してあちらこちらから、なんやかんや言われ始めた頃だったと思う。 ある女の子が、 「鯨は痛いんだよ。頭がいいから殺しちゃダメなんだよ。日本人は野蛮だわ。」 とインタビューに答えていた。 私は子ども心に、 「じゃあ、頭が悪けりゃ殺していいんだね。お前ら牛をめっちゃ食ってるけど、牛はバカなんだね。」 「鯨を食うのは野蛮で、牛を食うのは野蛮じゃないんだね。」 そう思った覚えがある。 捕鯨禁止の理由は、絶滅危惧ということだったはずだ。 でも、あの発言はそういうことではなかった。 あれは「自分たちの文化が上位、日本人の文化は下位で野蛮」そう言っていることとイコールだった。 そこには異文化に対するリスペクトのかけらもない。 じゃあ、そいうあなたはどうなの? そう。同じく小学生の頃、アマゾンの奥地で暮らす人々が木をほじって芋虫を引きずり出し食べている映像をテレビで見て「うえっ!なんだあいつら」と思っていた。 そんな私には異文化に対するリスペクトは1ミリもなかった。 今の私はどうか。 異文化に対するリスペクト、多様性を受け入れる心の器、そんなものがあるのだろうか。 甚だ心配だ。 それでも私は7月から日本語教師になる。 せっかく日本語を、日本を好きになってくれた彼らに感謝の気持ちを忘れず、 彼らへのリスペクトを忘れず、心して日本語教育の教壇に立とう。 札幌の家庭教師ポプラ工房では新規生徒を募集致しております。1時間の無料体験学習を実施致しております。 お気軽にお問い合わせください。
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手の傷とパスカルと先生
飼っているフクロモモンガに引っ掻かれた傷が消えない。 手の甲にあるその傷はもう3ヶ月も前につけられたものなのだ。 トシなのか…(あえて漢字を使わない) その傷を見ながらどういうわけだか小学校6年生の時の担任に言われた言葉を思い出していた。 「お前は問題児だ。みんな、今日から山岸を無視するように。」 もう40年以上も前のことなのに、そのときの担任の歪んだ口元、みんなが私を見る目、教室の空気、全てをリアルに覚えている。 もはや指導とは呼べない悪意に満ちたその言葉は、小6の小さな心と体では受けきれるはずはなかった。 40年以上も前のことなのに、まだチリチリと痛痒い。 子どもの活発な新陳代謝でも治せない傷があるということだ。 人間の弱さは、それを知っている人たちよりは、それを知らない人たちにおいて、ずっとよく現れている パスカル あの先生はもしかすると自分の弱さに気づいていない人だったのかもしれない。 あの言葉はその弱さの現れだったのかもしれない。 私も同じだ。 弱さを知る、というのは「数学が苦手」とか「スポーツが苦手」とか「打たれ弱い」とか「嫌なことからすぐ逃げる」とか、そういう自己評価ではなく、自分の深部の弱さに気づき、静かに見つめ、さらに「それが自分」と受容することなのだと思う。 「いやいや、本当の俺はこんなんじゃない。」とか「だからダメなんだ」とか「だから何とかしてやろう」とか、そういったマルバツ思想、両極の思考に行く前に、まず「ああ、そこにいるんだね」とただただ受け入れること。なんの評価も下さずただただ「ある」を受け入れること。 評価しない、期待しない、何とかしようと力まない。 なかったことにしない、目をそらさない。 ただ「ある」を受容する。 上手くそれができると、不思議なことに何かが…こう…プリッと出てくる感じがする。モヤ〜の場合もあるかもしれない。 徳の高い僧ならいざ知らず、凡々人の自分は常にそんな心持ちでいられるわけではない。 寝床で、トイレで、休憩中に、地下鉄の中で、静かな時間に限って自分の「よわっちー」君が顔を出す。 そんなときに言ってみる。 「よわっちー君、そこにいるんだね。」 バカバカしい? 確かに。 実際、笑えてきます。 それは行為がバカバカしいからではなく、そんな弱っちー自分がなんだか可笑しくなるから。 手の傷を見つめながら、かの先生を思い出したことはシャクだけど自分を見つめるいい機会だったと思うことにしよう。 これはショボくれている私への幸太(フクロモモンガ)からのメッセージだったのか? なんて。 札幌の家庭教師ポプラ工房は新規生徒を随時募集致しております。お気軽にお問合せください。
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愛ある職業人
私はプロの職業人の話を聞くのが好きだ。 高度な技術、プロ意識、仕事への情熱や愛を感じると話しかけずにはいられない。 人と話すことは苦手なのだが、好奇心の方が上回るのだ。 華麗にシェーカーを振るバーテンダー、24時間365日寿司のことを考えているという寿司屋の大将、コーヒー豆のことを我が子のことのように語る喫茶店のマスター、涼し顔で巧みな技を繰り出すカポエラの師匠、植物学者ですか?と聞きたくなるほど花の生態に詳しいお花屋さん…。 彼らの技に感動しあれこれ質問すると、本当は仕事の邪魔なのだろうが大抵の場合は笑顔で答えてくれる。 どの方のお話もとても興味深くて引き込まれてしまう。 「この人、本当に好きなんだなぁ」 好きなことに打ち込んでいる人のそばにいると、なんだか幸せな気持ちになる。 最近の私はどうだろう? 昔はよく言われた。 「とっても楽しそうに授業しますね。本当に物理が好きなんですね。」 教科そのものが好きなことはもちろんだが、生徒たちと一緒に「学びの場」を作ることが何より楽しいのだ。 (上手く噛み合わない時はコーナーに追い詰められたボクサーのように1分が1時間に感じることもあるのだが…。) 教え方のスタイルやポリシーは人それぞれで正解はない。 私は「その教科を好きで好きでたまらない人に習いたい」と思うタイプの人間だ。 だから私もそうありたいと思う。 でも最近は積み上げた経験の上で自動化した授業になってはいなかったか。 愛はあったか。 先日恩師から「やりたいことをやれる幸せを噛み締めましょう。」というメッセージをいただいた。 必要な時に必要な言葉が与えられるのはありがたいこと。 スマホに向かって頭を下げた。 札幌の家庭教師ポプラ工房では新規生徒を随時募集致しております。お気軽にお問合せください。
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予備校の出席率が激減するGW明け
GWが終わりましたね。 GW最後の日曜日はいつもの「サザエさん症候群」の数百倍の切なさをもって過ごさなければなりませんね。 20代後半から30代にかけて私は予備校で浪人生たちに数学を教えていましたが、GW明けの切なさは浪人生たちにも漏れなく襲いかかっていたようです。 毎年GW明けには2割から3割の生徒は予備校にあまり来なくなります。 入校時には「今年こそ」という締まった表情をしている生徒がたくさんいました。 でも始まってひと月も経たないうちにやってくる連休は、彼らの集中力を根こそぎ持って行ってしまうのです。 「自分でやることにしたんです。」とか「必要なときにだけ来ることにしたんです。」とか。 たまに来たときに声をかけると、そんなことをいう生徒もいました。 決して安くない入学金と年間授業料を負担するご両親のことを考えると、説教の一つもしたくなります。 中には本当に自分でやりきって合格する生徒もいました。でもそんなのは1人いるかいないか。 来なくなった生徒は志望校のランクを3つ4つ落とすか、次年度も浪人するのがお決まりのコースです。 残念ながら、志望校に合格するには勉強するしか道はありません。 一部天賦の才に恵まれた人たちをのぞいて、多くの人たちはそれこそ必死に勉強するしかないのです。 真摯に、直向きに勉強するしかないのです。 「やればできるタイプなんですけどねー」 「いやー、なかなかやる気が出ないんですよねー」 きっとそうなんでしょう。 ではどうします? できないことを何かのせいにしたり、足りないものを探したりしているひまはないのでは? 実は浪人生活が始まると次の受験まで1年ないんです。 9ヶ月しかありません。 4月に予備校が始まり、1月に共通テストです。 4月からいきなりエンジン全開にできる人は少数でしょう。 夏の開放感、クリスマスの雰囲気に心を乱されない人もそんなに多くないのでは? だとすると9ヶ月間、びっちり高いテンションで勉強し続けられる人は稀ですね。 正味半年、よくて7ヶ月くらいではないでしょうか。 どうか自分の夢を、自分を大切にしてください。
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カポエイラに見る無常観
ブラジルの伝統武術カポエイラをご存知だろうか。 格闘技と音楽、ダンスが融合した総合芸術とも言われる。 源流は諸説あるが、ブラジルがポルトガルの植民地だった時代にアフリカから連れてこられた黒人奴隷の間で生まれたという説がある。奴隷たちは格闘技であるカポエイラを踊りに見せかけて密かに練習したと言われている。 カポエイラはビリンバウやパンデイロなどの楽器で奏でる独特の音楽に乗せて行われる。 わたしは最近この音楽にすっかりハマってしまい家事をする時などはいつも流している。 お気に入りはこれだ。 ポルトガル語の歌詞なので全く意味がわからない。 Google先生に尋ねてみると、 「はい、はい、はい。いいえ、いいえ、いいえ。でも今日には明日はない。」 という回答だった。でもしっくりこない。 検索してみると、 有る、有る、有る。無い、無い、無い。今日は有るけど明日は無い。 ハト🤸♂️カポエラ講師 という訳を見つけた。 これは鴨長明の方丈記を彷彿とさせる訳で気に入っている。 アフリカから連れてこられた黒人たちが何を思いながら歌っていたのか。 いつかこんな時代は終わる。自由になれる日が来る。この世の中に変わらないものなんてない。 そんなことを思いながら歌っていたのかもしれない。 ある先生は、 「カポエイラは対話です。」 そうおっしゃっていた。 確かにそうだろうな。 初心の私はまだその域には達していない。 カポエイリスト(カポエイラをする人)たちはみんな本当に楽しそうだ。 辛く悲しい時代の中で生まれたカポエイラ。 奴隷小屋の中でカポエイラを舞っていた当時の黒人奴隷たちは、 今のカポエイリストたちを見てどう思うだろうか。 険しい表情をふっと緩め、優しい顔で見てくれるだろうか。 どこか悲しげな雰囲気が漂うカポエイラの歌を聞きながら 時々そんなことを考えている。