カポエイラ
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憧れた人が憧れたままの人だった
先週の日曜日、私と息子が所属する「ゲトカポエイラ」の日本支部代表のワークショップがあった。 代表のマッチ先生は本場ブラジルで修行を積んだ達人。 私と息子はYouTubeで拝見するマッチ先生を見て「かっこいいなぁー」と密かに憧れていた。 先生が札幌に来られるということを聞いて私たちは大いに興奮した。 ワークショップの前日、息子は「緊張するー」を連発していた。 まるで大好きなアイドルにでも会うかのように。 当日は車を停めるのに手間取り、時間ギリギリの到着だった。 会場のドアを開けると、そこにマッチ先生が自然な立ち姿でおられた。 「俺はすごい先生だぞー」オーラは全く出ておらず、物腰は柔らか。 優しそうな目が印象的だ。 思っていた通りの「マッチ先生」がそこにいた。 横にいる息子が緊張しつつも喜んでいるのが伝わってくる。 練習が始まってからも「物腰柔らか」は変わらなかった。 でも、動きはすごい。 カポエイラ独特の柔らかい動きの中にも、筋が一本ビシッと通っている。 指導も的確でわかりやすい。 「ああ、本当にお会いできてよかった。」 まだ始まったばかりなのに私はすでに満ち足りていた。 練習中、マッチ先生の指示に対してすぐに動けず、まごつく男の子がいた。 その度に札幌支部の先生がその子の手を取って導くのだが、 マッチ先生は「大丈夫、彼はできるから」「自分で考えて行動させよう」と言って制していた。 ああ、マッチ先生はカポエリストとしてすごいだけではない。教育者としても最高なのだ! だからみんなが彼を慕い、ついて行くんだ。 存在を丸ごと受け入れ、可能性を信じてくれる人。 誰だってついて行く。 私だってついて行く。 私は「家庭教師は伴走者」だと思っている。 子どもたちの手をグイグイ引っ張るのではなく、横に立ち同じ方向を見ながら励まし伴走する。 でも、なかなか思ったようにはいかない。 気がつくと手をひっぱていることもしばしば。 マッチ先生の子どもたちへの接し方を見て、私は大いに反省した。 憧れの人が憧れたまんまの人であることは稀だ。 最高のワークショップ、最高の休日だった。
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カポエイラに見る無常観
ブラジルの伝統武術カポエイラをご存知だろうか。 格闘技と音楽、ダンスが融合した総合芸術とも言われる。 源流は諸説あるが、ブラジルがポルトガルの植民地だった時代にアフリカから連れてこられた黒人奴隷の間で生まれたという説がある。奴隷たちは格闘技であるカポエイラを踊りに見せかけて密かに練習したと言われている。 カポエイラはビリンバウやパンデイロなどの楽器で奏でる独特の音楽に乗せて行われる。 わたしは最近この音楽にすっかりハマってしまい家事をする時などはいつも流している。 お気に入りはこれだ。 ポルトガル語の歌詞なので全く意味がわからない。 Google先生に尋ねてみると、 「はい、はい、はい。いいえ、いいえ、いいえ。でも今日には明日はない。」 という回答だった。でもしっくりこない。 検索してみると、 有る、有る、有る。無い、無い、無い。今日は有るけど明日は無い。 ハト🤸♂️カポエラ講師 という訳を見つけた。 これは鴨長明の方丈記を彷彿とさせる訳で気に入っている。 アフリカから連れてこられた黒人たちが何を思いながら歌っていたのか。 いつかこんな時代は終わる。自由になれる日が来る。この世の中に変わらないものなんてない。 そんなことを思いながら歌っていたのかもしれない。 ある先生は、 「カポエイラは対話です。」 そうおっしゃっていた。 確かにそうだろうな。 初心の私はまだその域には達していない。 カポエイリスト(カポエイラをする人)たちはみんな本当に楽しそうだ。 辛く悲しい時代の中で生まれたカポエイラ。 奴隷小屋の中でカポエイラを舞っていた当時の黒人奴隷たちは、 今のカポエイリストたちを見てどう思うだろうか。 険しい表情をふっと緩め、優しい顔で見てくれるだろうか。 どこか悲しげな雰囲気が漂うカポエイラの歌を聞きながら 時々そんなことを考えている。