病院で風邪薬などが処方されると、胃薬も一緒に処方されることがある。
風邪を治すための薬が健康な胃を壊し、それを治すための胃薬が必要というわけだ。
スポーツジムを横切ると、ずらりと並んだランニングマシン使って汗をかいている人々を見かける。
見かけるたびに私は風邪薬と共に処方される胃薬を思い出してしまう。
技術の進歩は人をありとあらゆる苦役から解放してくれた。
私もその恩恵に大いにあずかっている。
でも、便利さは人間のなんらかの”持ち物”とトレードオフだ。
少し前の漫画「鋼の錬金術師」の言葉を借りれば、等価交換だ。(等価かどうか怪しいけど)
技術の恩恵にあずかるために、人は何かを差し出さねばならない。
たとえば車はもはや人間生活になくてはならない存在だが、人は長く歩く能力を差し出さねばならない。
まあ、それくらいならランニングマシーンでなんとか補填できそうだ。
でも、インターネット、パソコン、スマホに対して、人はどれだけの”持ち物”を差し出してきたのだろうか。
そしてそれは等価交換になっているのだろうか。
先日、生徒の1人に「私が最初に買ったパソコンは電源スイッチを押してから、コーヒーを淹れて戻ってきてもまだ立ち上がっていなかったよ。」と話したらほんとうに驚いていた。
もちろん少し盛ってはいるが、トイレくらいは行けたはずだ。
今は何らかのトラブルが発生していない限り、数秒で立ち上がるだろう。
先日、外出先で道がわからなくなりGoogleマップで経路を調べてみた。
すると機種が古いせいか地図がなかなか表示されない。
表示された頃には自力で目的地に到着していた。
歩いている間中、私はスマホに向かって「何やってんだよ!」と心の中で文句を言っていた。
でも、私のパソコン第1号に比べればなんてことはない。
どうやら私は、技術革新による”時短”と”寛容”を等価交換したようだ。
でも周りを見渡すと、”時短”と”寛容”を等価交換したのは私一人ではないことに気づく。
特に車を運転しているとそれがよくわかる。
ゆっくりと横断歩道を渡っている人にグイグイ接近して圧をかける人。
それはもう信号無視でしょ、と言いたくなるようなタイミングで信号の変わり目に交差点を通過する人。
信号待ちをしている間中、少しずつ少しずつ前進し続ける人。
全て挙げていてはキリがない。
もちろん昔もいたが、体感としてどんどん増えている気がする。
また、すぐキレる人も増えているように思う。
コンビニでもたつく新人スタッフを怒鳴っている人、怒鳴らないまでも舌打ちをする人をときどき見る。
せっかくスタバで美味しいコーヒーを飲みながらくつろいでいるのに、何やらバリスタにキレている人を見たこともある。
今よりもう少し若かった頃、書店で若い店員にキレているおじさんにキレたことがあった。
キレて説教しているおじさんに、別のキレたおじさんが説教している構図は何とも見るに耐えないものだったろう。
結果、同じ穴のムジナ。
“寛容”は便利さと決して等価ではない。
寛容が完全に失われてしまった社会を想像するとゾッとする。
心がキュッと狭くなっていることを感じたら、心の中で言ってみよう。
「それも、いいじゃないか」は面白い人生のスローガン
メーソン・クーリー