手の傷とパスカルと先生

飼っているフクロモモンガに引っ掻かれた傷が消えない。

手の甲にあるその傷はもう3ヶ月も前につけられたものなのだ。

トシなのか…(あえて漢字を使わない)

その傷を見ながらどういうわけだか小学校6年生の時の担任に言われた言葉を思い出していた。

「お前は問題児だ。みんな、今日から山岸を無視するように。」

もう40年以上も前のことなのに、そのときの担任の歪んだ口元、みんなが私を見る目、教室の空気、全てをリアルに覚えている。

もはや指導とは呼べない悪意に満ちたその言葉は、小6の小さな心と体では受けきれるはずはなかった。

40年以上も前のことなのに、まだチリチリと痛痒い。

子どもの活発な新陳代謝でも治せない傷があるということだ。

人間の弱さは、それを知っている人たちよりは、それを知らない人たちにおいて、ずっとよく現れている

パスカル

あの先生はもしかすると自分の弱さに気づいていない人だったのかもしれない。

あの言葉はその弱さの現れだったのかもしれない。

私も同じだ。

弱さを知る、というのは「数学が苦手」とか「スポーツが苦手」とか「打たれ弱い」とか「嫌なことからすぐ逃げる」とか、そういう自己評価ではなく、自分の深部の弱さに気づき、静かに見つめ、さらに「それが自分」と受容することなのだと思う。

「いやいや、本当の俺はこんなんじゃない。」とか「だからダメなんだ」とか「だから何とかしてやろう」とか、そういったマルバツ思想、両極の思考に行く前に、まず「ああ、そこにいるんだね」とただただ受け入れること。なんの評価も下さずただただ「ある」を受け入れること。

評価しない、期待しない、何とかしようと力まない。

なかったことにしない、目をそらさない。

ただ「ある」を受容する。

上手くそれができると、不思議なことに何かが…こう…プリッと出てくる感じがする。モヤ〜の場合もあるかもしれない。

徳の高い僧ならいざ知らず、凡々人の自分は常にそんな心持ちでいられるわけではない。

寝床で、トイレで、休憩中に、地下鉄の中で、静かな時間に限って自分の「よわっちー」君が顔を出す。

そんなときに言ってみる。

「よわっちー君、そこにいるんだね。」

バカバカしい?

確かに。

実際、笑えてきます。

それは行為がバカバカしいからではなく、そんな弱っちー自分がなんだか可笑しくなるから。

手の傷を見つめながら、かの先生を思い出したことはシャクだけど自分を見つめるいい機会だったと思うことにしよう。

これはショボくれている私への幸太(フクロモモンガ)からのメッセージだったのか? なんて。

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